第三章 ほの暗き深淵の底から
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惑星間を飛行し、微小な推力をもとに微修正を繰り返しつつ
核爆弾、1メガトンの水爆は進む。
かつてアメリカが日本に落とした原爆、それはマンハッタン計画の
関係者や軍部を大喜びさせたかもしれないが、その後の核開発競争を
果たして誰が喜んだだろうか?
今まで軍拡を続けてきた人類ですら、その兵器を暫減することを決めた
そこまで忌まわしい扱いを受けた存在がこの世にあっただろうか。
まるで生まれたことそのこと自体呪われた存在。
核爆弾そのものや原子力もただ、物理学による自然現象を利用した
科学の産物に過ぎないのだ。
ただあまりにもそれは、人類が扱うには強力すぎる存在だった、
そのことは認めざるを得ない。
プロメテウスはかつて太陽から「火」を奪い、それゆえに罰せられたと
ギリシャ神話にある。また、イカロスは太陽に近づきすぎたがゆえに
蝋で固めた鳥の羽を失い、墜落死した。
そして限定的にだが、人類は水爆という形で「疑似太陽」を発生させて
しまったのだ。この地上に。
まさに本当の意味でのプロメテウスの火、そしてイカロスを焼いた炎。
公式に存在するデータだけでも58メガトンの水爆が作られ、そして
実際に実験が行われた。
その重量は数十トンにものぼり、最早移動手段すらなくなってしまった。
…もう兵器としての役割すら失いつつあった。
そして現在、核兵器は小型化の一途をたどり、巨大水爆の存在意義は
全くなくなってしまい、水爆は二度と使われることのない禁断の兵器、
そうなるはずだった。
だが…今は違う。
かつて全ての人類を恐怖させ、忌まわしい存在であった水爆。
それが今では人類の希望を全身に背負って、宇宙空間を進んでいた。
水爆に心があるのなら、それはどれだけ誇らしいことであったろうか?
かならず…成功させる。この身は四散し、宇宙のクズに成り果てる。
しかしそうすることで何十億という数の人たちの命が救われる。
他の原爆、水爆は人の命を奪う存在でしかなかった。
今の自分はどうか?逆だ。まったく逆の存在だ。中身は一緒でも、
まさに反対の存在だ。
…水爆にもし心があったのなら…どんなによかっただろうか?
隕石にミサイルが到達するまでは人類はまだ、おおむね平穏だった。
2011年9月30日、弾着直前までは。
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石原は近所の工場で黙々と働いていた。
自衛隊のときに取得していた重機の免許のおかげで就職には困らなかった。
失業保険が切れる前に再就職し、全然関係ない工場の職工をやっていたのだが、
はっきりいって浮いていた。
ヲタトークする相手もいないし、自衛隊出身であることもあんまり言いたくない、
となるとしゃべれるネタが殆どない。自然と無言になる。
こんな状況でも周囲はのんきなものであった。
休憩時間になると、やれ車がどうだの、どこの誰が誰と付き合ってるだの、
石原からしたらどうでもいい話で時間が費やされる。気がつけば石原は場から
離れるようになっていた。仕事時間以外は、寝ているか、トレーニングして
いるかのどちらかだった。
黙々とスクワットを行う。
今日、どちらにせよ結果が出る。上手くいくならそれでいい。
問題は行かなかったときのことだ。むしろ上手くいけよ、出番いらないから。
出番が欲しくないという人にお鉢が回ってくることがしばしばあるのは、
おそらくそいつはいろんな意味で「人のやりたくない仕事」だからだろう。
「151、152、153…」
周囲から見たらどのように思えたかはわからないが、今の石原はどうしても、
体を動かしていないと落ち着かなかったのだ。
それは第六感とか虫の知らせというやつに近いのだろうか?
始業前のチャイムが鳴る。夕方ごろには「結果」が分かる。
正直なところここにいるのも気分はよくない。しかし、ほかに行く先あるのかと
言われたときに、思いつかないのもまた事実である。
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思わず舌打ちしそうになったが何とかこらえた二人の男がいた。
武宮と一条、最悪の組み合わせだ。
年齢は武宮のほうが上だが、キャリアとしてエリートコース邁進中の一条と
武宮は階級として同一と来ているから性質が悪い。
武宮は以前石原に漏らしていた。一条とだけは一緒に仕事したくないなぁと。
よりによってこんな市ヶ谷の廊下で会わなくっても良さそうなものだが。
同じような思いは一条にもある。
武宮といえば陸自の中でももっとも変人奇人の類であり、正直なところあんまり
寄り付きたいとは思えない(向こうもこっちを嫌っているのは幸いだが)。
挙句に武宮の子飼いにはあの「人間兵器」石原がいるときている。
目の前の砲身が155mmの訓練弾で曲がったときは背筋に冷たい物が走った。
こいつ俺を殺す気だったんじゃないか?と。
いや、戦時中でそれが指揮官の命令なら仕方あるまい。
残念ながら敵と敵に回ったら殺しあう他ないだろう(幸いそれもないだろう)。
しかしあの時…誰が石原に「あの」命令を出したのか…武宮以外に想像が
出来なくなっている一条である。
疑心、暗鬼を産む。
銃後から撃たれた指揮官は結構多い物だ、というが武宮にそこまでのこと
やったか俺は?と位は言いたくなる一条である。
無論武宮にも言い分がある。
あそこで一条が無駄に挑発しなければあそこまではやらなかった。
せいぜい至近弾で勘弁してやる予定だった。部下思いなのである。しかし、
部下を罵倒されて何もしないなんてことは、武宮にはとてもじゃないが
出来そうにない。ただそれだけのことである。
キモヲタと馬鹿にした一条が武宮の命令で石原に一撃食らう。
その気になれば石原は一条を狙い打つことすら出来たのではないかとすら思う。
多分石原自身はそこまでのことをやらかすタイプじゃない。
しかしこの目の前の男は違う。確実にやる。そういう男だ。
何も生み出さない不毛な睨み合いは2分18秒にも及んだ。国民の税金は、
こうして無駄に消えていくのだ…
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深淵を覗き込む物は深淵に注意せよ。深淵もまた、汝を覗き込む。
…漆黒の闇、圧縮された狂気が、すぐそばにあるとき、どれだけの
人間がそれに気がつき、適切な対応を行えるだろうか?
すでに、それは始まっていたのだ。
石原は3時の休憩に入ったとき、TVをつけた。
予定では日本時間2時08分に着弾なのだから、その情報が入って来ても
おかしくはないはずだ。例え離れているといっても、爆発自体の観測は既に
終わっていないとおかしい。そして当然それはニュースのテロップとして
流れたりNKHの特番として流れたりしなければならない。
…ない。どこにも情報がない。
石原はあわてて飛び出した。仕事?それより確認せねばならないことが
いくつかあるのだ。携帯でネット掲示板を見る。水爆の着弾、爆発は成功。
しかし情報はそれだけ。何故流さない?何故放送しない?
走りながら石原は武宮に電話をかける。
他の社員たちは呆然と石原を見送るしかなかった。
「あいつ、どこ行くんだ?」
「さぁ…」
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にらみ合いのさなか、不意に武宮の携帯からファンファーレが鳴り響く。
ててててーてーれ てっててー…某□E社の有名RPGの音楽である。
露骨に嫌な顔をする一条を右から左に受け流して武宮は電話に出る。
「もしもし、俺だ。石原?また何だ急に?え、フランス?核?」
「ちょ、武宮さん!あんた部外者に何を」
「うっせぇな黙ってろ一条!核のニュース…そういえばぜんぜ…っと待て」
不意に一条に向き直る武宮。そこには憎しみの感情などないようだ
「一条!フランスの例の水爆の情報どうなってる!?」
「!!あれ今日だったのか!」
「ばっかやろ今日だったのかじゃねぇよ!石原のがよほど使えらぁ」
「…でも自分も何も知らないですよ!」
「俺もだ。ちっ…こりゃちょっとマズいかも知れんな…石原!とりあえず状況確認
までしばらく現状維持だ。これは命令だ!」
石原をまるで部下かのように扱う武宮に半分あきれ気味の一条。
「…命令って、石原はただのニー…あ、今は社会人でしょうに」
「ごたごたうっせぇよ!一条、例の種の件どうなってるんだ!?」
「種?…いや、なんのことですか?」
「しらばっくれても仕方ないだろ今更!」
「…どこまで、知っているんです?」
「それなりに、な」
一条はまた背中に冷たい物を感じる。この男はどこまで知ってるんだ?
隠しても仕方ないのは確かなので現状をさらりと言うのみにとどめる。
「まだ建造中ですよアレは!それにそんなに人だって…」
「それも知ってるっての!そうなったらお前らだけが最後の頼りなんだから
しっかりしてくれよ!現時点の情報収集後、状況開始だ!いいな!」
「は!情報収集後、状況開始!」
心とは裏腹に、いや、裏腹でもない。確執ぶつけ合っている暇があったら
情報収集して現時点での最良の仕事を行うべきだというのは体でわかっている。
無駄なにらみ合いの時間を取り返す。
そう思い一条がすばやく駆け出して行った後、武宮はつぶやく。
「…あいつも悪いやつじゃないんだが…な…」
そういうと武宮もまた反対方向に駆け出していった。
少なくとも3人はもうある程度理解していた。深淵がそこに迫っていることを。
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水爆そのものの着弾、ならびに爆発は成功していた。
しかし…致命的な問題があった。あくまで計算中ではあるが、殆ど軌道に変化が
見られないという事態。
メガトン級核である。それで軌道が変わらないのは何故だ?
ありとあらゆる計算と観測を必死に行う。もう既に着弾から2時間が過ぎた。
しかし軌道は全然変わらない。いくらなんでも予測と違いすぎる。
一人の学者が、不意に気づく。
「あっ!!」
「どうしたよおい」
「…イオンテールだ!まだ太陽までの距離はあるはずなのに…」
「…水爆のせいですか!そんなことまで想定できませんよ!」
「それだけじゃないわ、今年は太陽活動が大きくなってる…もう最悪!」
その写真には2つに分かれた彗星の尾が映し出されていた。
一つは塵の尾。そしてもう一つは…太陽風による荷電粒子の尾である。
水爆の直撃を受けた彗星が、あたかも荷電粒子により推進するイオンロケットの
ように自らの軌道を修正し、地球に向かうコースを取っているのだ。
フランスチームの目の前に、一人の男が立っているかのようだった。
男はかつてこう語った。「神は死んだ。俺たちが、殺したんだ」
ある研究者は後に回述する。
「あの時は、神は本当に死んでいたんだろうな。多分3日くらい後に復活した
から問題はあまりなかったと思うが」
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石原は作業をただ黙々と行っていた。
これから何が始まるかをここにいる人間のどれだけが知っているのか?
…知るわけがない。そして知ったとしても深淵に飲み込まれることだろう。
なのに、自分は知ってしまっている。
そしてこんなにすぐそばに狂気が迫りながらもなお、正常でいられる。
…狂うことが出来ればどんなに幸せなことか。
石原は与えられた情報以外での判断を出来る限り避けている。推測や憶測は
所詮推測や憶測でしかない。下手な考えを「しないこと」をマスターした。
なぜなら彼は「無能」な「怠け者」になりたいからだ。
「有能」な「働き者」は最前線に担ぎ出されて、そして闘って、死ぬ。
「無益な戦争」はありうることを知ってしまった今では、もう有能である必要も
働き者である必要もない。人が何を言おうがあくまで好きに生きられればいい。
ただ逆に、それが「できる」ということは…
「普通に生きられたら良いなぁ…」
ふと呟いてしまう。
就業時間直前、同僚の一人が石原に声をかけてくる。
「おい、石原。工場長がお前呼んでっぞ?」
「なんで?」
「さぁ…」
石原はともかく工場長のところに向かうことにした。
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「いきなりクビ?何でですか!おかしいですよ!自分…いや、私はまじめに仕事を
してきたつもりです」
「…さっき休み時間に何か電話していた、アレは何だ」
工場長は質問に答える気はないという感じで窓を向いたまま石原に問う。
「休み時間にどこに電話をしようが勝手じゃないですか!」
「…よくわかったよ、君の性格が!」
「まだ半年しか働いてないのに何で!」
「君はこのまま…でいい…と思っているのか?」
「何をいきなり言い出すんですか」
「…私は、正直恐い。とても…恐い」
「こ、工場長?」
不意に工場長が崩れ落ちる。
「もうダメだ、恐いんだよ。石原君、君は恐くないのか?」
「さっきから何を言ってるんですか!しっかりしてください!」
「空から…隕石が落ちて…」
「…知ってしまったんですね…」
これが、普通の人の反応ってやつかもしれない。だとしたら深淵の端でなお
『正常』でいられる自分はやはり異常なのだ。
「だから…早く…こんな誰でも出来る仕事をやめてすぐに…頼む…助けてくれ…」
「何言ってるんですか!まだ隕石落着まで1年以上あるじゃないですか!」
「石原君…君は私達よりもはるかに強い。聞いたよ。陸上自衛隊にいて何度も
修羅場を乗り越えてきたことを…」
「武宮さんからですか?」
「ああ」
なんと残酷なことをするのかと石原は思った。工場長が余りにかわいそうだ。
「だから、早く…彼らの手伝いをしに…」
「隕石落着まで1年以上あるのにどうやって食べて行けと!」
「食い扶持ぐらいは出すよと陸自の武宮さんから連絡があったよ」
「…もう、逃げられないのか…」
工場長は死にそうな顔色をしている。
武宮なら無理やり励ますだろうが、石原はそれは普通の人にやることではないと
思っている。だから、手を握るだけにした。
「ありがとう。これから世界を救う英雄と握手できるとは、私は幸せだ」
「…今のところはただの工員ですよ」
「謙遜は必ずしも美徳ではないぞ」
「ちょっとだけ元気が出てこられたようですね」
「…君の、おかげだよ…」
「その前にまだやることがありますよ、工場長」
「何をだ?」
「地球の方は誰かが救うんです。工場のみんなを路頭に迷わせないでください」
「誰か、では困るな。君が、といってくれないと…」
「出番が回ってきたら、必ず救ってみせます!」
「ありがとう、じゃあ、やっぱり君はクビでいいな」
流石の石原もずっこけた。
「おいこら待て、話の流れがおかしいだろ!」
そりゃ切れられても仕方ないな、と工場長も薄々は分かっている。
「じゃあこうしよう。石原君は出向することになった。陸上自衛隊特務研究部へ」
「…ちょっと待ってください。特務研究部…そっちの方が給料いいか…?」
「じゃやっぱりクビで」
「何であんた俺をクビにしたがるんだ!」
「いや、マスコミとかが思いっきりネタにしそうだから」
「なるほど、みんなのためですね…でもクビって何かいやだなぁ…」
「クビの方が失業手当でかいぞ」
「うーん…」
地球とかどうでもいい、まずは世界救う前に自分救うことを考える石原だった。